あんしん|中島梓織
こんばんは、おぺです。
安心について考えます。
漠然とした不安、というのが、あると思うのですが、よくそれを感じます。なんか、なんかよくわかんないけど、なんか、よくない気がする。別になにがとかではなく。なんか。なんかね。
不安になったときはそれをなるべく具体的にする、細分化する、可視化する、というのはよくやってきたことですし、いいへんじでやっていることもざっくりといえばそれです。
それなのですが、最近はそれもサボって、細分化なんてせずに、
ん〜〜〜なんかふあん〜〜〜でもねちゃう。
みたいなことが多いです。
寝れるならいいだろ!寝て忘れろ!
そうなんですよ。
寝れるならいいじゃないですか。寝て忘れられるくらいの不安なら、初めから不安がらなければいいじゃないですか。って思います。
じゃあ、なんで、わざわざ。。
そこに、おそらく、「不安であることの安心」が、あるからだと思うのです。
(このことはまたいつか書けたらと思うのですが、)20年そこらしか生きていませんが、いまのところ、怒られたり叱られたりすることが少なかった人生でした。自分としてはそう感じています。
で、少ないからラッキー、というよりは、怒られたり叱られたりしないけど、わたしこういうとこあるんだよな、、自覚自覚、、という思考に行きがちです。
自分で自分を監視してないと、不安、みたいな。
監視、っていうと、けっこうおおげさな言い方ですけど、いいことか悪いことか、というか、なにか悪いことしてないか、自分で把握できていないと、不安、みたいな。
逆を言えば、不安、ということは、わたしなにか悪いことしてないかな、という思考が働いているということ(が多い)ので、ちゃんと自分を見ておこうとしているな、自覚しようとしているな、というそれ自体は、安心。
誰かに怒られたり叱られたりはしないけど、自分でそれを捉えようとしているから、安心。(捉えられてるかどうかは別として。)
だから、不安だと安心なんだな、って。だから、とりあえず、ふあん〜〜〜って「なる」、というより、ふあん〜〜〜って「してる」んだろうな、って。
健康に悪くない?!
その安心、めちゃくちゃ健康に悪いじゃん!
しかも、もともとは「わたしなにか悪いことしてないかな」と判断したくて、把握しておきたくて、不安になってたのに、最近の自分ときたら、「不安である」だけで満足して、寝ちゃう。
形骸化!
そんなの、「自分は今日も善く生きた」って思いながら生きてるほうがぜんぜんいいじゃん、みたいな。。
まあでもやっぱり自分のことは日々顧みながら生きていきたくて、だからこうやって、不安に安心してる不安の具体化、細分化、可視化はできたから、ちょっと、安心したんですけどね。
なんでこんなこと書いたかというと、最近はずっと「いきすぎた自己完結」の恐ろしさのことを、考えているからです。
漠然と不安、その正体、その対処、それだなあと思って。
稽古でも、普段の生活でも、自分以外のひとに意見を求めることが、いままでより、より多くなってきたのも、それゆえかもしれないです。
求めすぎちゃってたらごめんなさい。不慣れ。。
もう、とりあえず、部屋を掃除したらいいんだと思う!!!!!
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