「完」とは|中島梓織



こんばんは、おぺです。

鶏肉の黒酢炒めとビールでおなかいっぱいですよ〜!!今日もすてきな出会いがいっぱいでした。ありがとうございました。

「完」

としたいところですが、「完」とは、というタイトルをつけてしまったので、「完」について書きます。

(ちなみにタイトルはいつもいちばん最初に決めます。作品もそうです。ふたを開けたらびっくり、なんてことばかりです。ごめんなさい。改めよっ。)


なぜ、「完」とは、というタイトルにしたかというと、『過眠』が「完本」したからです。とりあえず、あたまからおしりまで、ある状態になりました。

でも、自分で、暗転。完。と入力しておいて、よっしゃ〜、、、という気持ちと同時に、ほんとうに?という気持ちになってしまったんですね。

「完」とは?

いや、でも毎回そうか。毎回、いや〜、これや〜べえな〜、大丈夫かな〜、まあいっか、完。稽古でどうにかなるでしょう、完。なのかもしれない。

でも、今回はそこに対する違和感が、より強くあった気がします。


当たり前のことですが、作品には、はじまりがあって、おわりがあります。作品づくりにもはじまりがあって、今回で言えば、昨年の10月くらいにこの企画ははじまりました。そして、5月の本番が終われば、作品づくりもおわります。
 

でも、生活は、そうとは言いきれません。

どこからがはじまりで、どこまででおわりなのかなんて、はっきり言えなくて、だれかひとりとの関係性でさえ、いつはじまったのかはあいまいだし、いつ終わるのかもわからない。(終わってほしくはないけれど)80年後かもしれないし、明日かもしれない。


劇場に入る前からはじまっていて、劇場を出た後もおわらない、そんな作品を、ずっとつくりたいと思っていますが、今回は、テーマも相まって、なるべく「おわらせたくない」作品かもしれません。

おわりを決めたところで、ほんとうにそう?が顔を出すのが、今回の作品の特徴です。おわりを決めるのも、ほんとうにそう?も自分ひとりでやってしまうので、このままではこっけいなひとです。

反面、すごく「おわってほしい」とも思っていて、おわりを決める、ほんとうにそう?おわりを決める、ほんとうにそう?のその繰り返し自体がいやになってしまうんですね。これは毎度のお話ですが、「おわらない思考の旅」感がすごすぎて、途方にくれてしまうことも。

これぜったいおわらない!むり!にんげんやだ!やさしくなりた〜い!や〜!と、なってしまうことも、しばしばです。


今日、19ページ目に入力した「完」は、ほんとうの意味での「完」ではないと思うし、これは、自戒でもあるけれど、救いでもあります。まだまだおわらない、ということは、絶望でもあるけれど、希望でもあります。


今回も、いろんなことに気づいて傷ついたり、傷つくまもなく、いろんなことが進んでいったりしています。

みなさんに届くまでは、おわらないし、みなさんに届いたあとも、おわらないものに、するぞ!やさしくてさわやかなものに、するぞ!


今日はひとまず、完。ですが。



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