わからない|中島梓織
おはようございます、おぺです。
書きながらいつのまにか眠りに落ちていました。不思議な時間の投稿になってしまってすみません、、
二人でブログを回すのは『ハイ』以来なのですが、二人だとやっぱり交換日記感が増すのですね。毎回、お返事のような気持ちで書いちゃいます。お返事のような気持ちで、結局は、自分の考えたいことを考えちゃうわけなのですが、、
ということで、あなたの「めがね」をかけること、え、キツくない?!ということですが、まあ、そりゃあ、キツいよね(笑)
『夏眠』と『過眠』、いままでの作品とは大きくことなるところがあります。それは、わたし自身が、中島梓織自身が「わからない」と思う存在が作品の中にはっきり存在しているということです。
基本的に台本を書くときは、わたしがもやもやしていることを書くので、視点が「わたしはこう思う」でした。わたしがもやもやしていること、思っていること、考えていること描くために、あえてわたしとはちがう考え方を持っている登場人物を描くことはありましたが、それはあくまで、わたしの想定の範囲内で、「あなたはこうかもしれないけど、わたしはこう。」くらいでした。
「だけど、どっちもまちがってるとは言えないよね。」とも、言えました。「あなた」が考えてることは、すべてはわからなくても、まあまあわか(った気になれ)るし、それも一理ある。とも、思えました。
それが、今回は、できない!(笑)
なぜかといえば、今回は最初から「お互いがお互いをわからないもの同士」を描こうということは決めていたからです。言ってしまえば、わざと自分でそうしたのです。
「わからない」と思う存在、「わからない」と思われてしまう存在のことを描くためには、「わたしはこう思う。」では通用せず。台本の中でも、稽古の中でも、「なんで?」「なんで?」「なんで?」のオンパレードなのですが、さすがにキツいものがありますね。「なんで?」に答えがあったとしても、次は「それはどういう意味?」になるし。
「あなた」が何を考えてるのかとか、本当に、本当に、手の届かないところに、想像のつかないところにあるんだなあ、キッツ(笑)と改めて思いました。
でもでも、このある種のキツさを体感ができることって、とても大事なことだと思っていていて、ですね。
「わたしはこう。あなたはこう。きっとそう。」と思い込んでいて、無意識にわたしに、あなたに、それを押し付けていて、でも、それって、すごくもろいもので、危ういもので、それをどうしても忘れてしまいがちなんですけど、忘れてしまいがちだから、うまくいかなくなってはじめて「なんでわかってくれないんだろう?」とか「なんでわかってあげられないんだろう?」とか考えてしまうわけで、、
「わっ、そうだ、わたしたちは、わかりあえないんだった!」と気づくこと、思い出すこと、さみしいですけど、かなしいですけど、そこに立ってしまえば、わたしたちは「わからない」に向き合うことができる。
実際、今回の稽古も、わたし自身がよくわかっていなかったことが明るみになっていく感覚がずっとあります。
「わからないとすら思わなかったこと」=「当たり前だと思っていたこと」を「わからない」と言われてしまうこと、逆に、「わからない」と思っていたことを「当たり前だと思っていた」と言われてしまうこと、さみしいですけど、かなしいですけど、結局は、いま気づいといてよかったな、と思えます。
わたしたちはわかりあえないという前提で、いっしょになって考えてくれるひとがいる、いまの稽古場はとてもありがたい空間です。人数も少ないので、ひとりひとりの声が聞こえるし、ひとりひとり言ってること違うし。「また違うこと言うじゃん?!(笑)」が、わたしはもはや、おもしろくなってきています。不思議な感覚です。いままでにはなかった感覚です。
ありがとうございます。
こんなことなかなかないですよ!!目を背けておこうとすれば目を背けておけることを、「見てみようと思うのですが、いっしょに見てもらえませんか!」ってお願いしてるようなものですから。でも、いっしょに見てみて、はっきり「わからない」と言い合えたり、「それはどういうこと?」と言い合えたり、できて、うれしいです。ほんとうにありがとうございます、、、
なぜ「キツいよね(笑)」から「ありがとうございます、、、」になったんだ、、、つまりは、
わかりあえないことを前提として、「わかろうとすること」「わかられようとしていること」をとらえられると、じつはただキツいだけではないのかなって、わたしは思ったよ。っていう、、あんまりうまくまとまってないですよね、、、
このことはもうちょっと時間をかけて考えたいと思います、、、不思議な時間帯なので今日はここら辺で、、
わかりあえないことを前提として、って、当たり前にできたらいいんだけどなあ、、
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