めがねの話|中島梓織



こんばんは、おぺです。

わたしはちゃんとあいさつからはじめますよ(笑)昨日のみるちゃんのブログ、なんだかスピード感がありました。あんなにみるちゃんがウワ〜〜〜〜と話す?書く?のはときどきあるけどめずらしいほうでは。ざっと読んだだけでは飲み込めなくて、ゆっくりじっくり読みました。おつかれさま。


わたしはめがねの話をします。


たまたまコンタクトがきれてしまって、ここ二週間くらいめがねで過ごしているのですが、コンタクトのときよりも、裸眼視力と矯正視力のちがいを思い知りながら過ごしています。

どういうことかというと、めがね、物理的にあんまり好きじゃなくて(笑)必要ないときはすぐ外すんですね。

そうすると、一気に、視界がぼやけて(めちゃくちゃ視力悪いので)なんにも見えなくなって、あ〜、裸眼だとなんにも見えないな〜、しょうがない、めがねかけよ、見えた〜、のくり返し。

なので「はっきり見える」「ぼんやりとしか見えない」をいったりきたりする生活というわけです。


そこで、わたしは気づいてしまいました。


本来のわたしの力ではぼんやりとしか見えないものは、わたしの力ではなく、「めがね」の力よってはっきり見えるようになっているのだ、ということに、、、

?????

すごく当たり前のことを言っていると思われるかと思いますが、というか、わたしも思いますが、この「めがね」は必ずしも、視力を矯正するためのめがねというわけではなく、もっとこう、広い意味の、めがね、、、です、、、


「色めがねで見る」という言葉があります。偏見を持つとか、バイアスがかかるとか、そういう意味の。「色めがね」まではいかなくとも、少なくとも「めがね」くらいは、みんなが持っていると思います。

つまり、それぞれに、自分が生きている世界のことを、理解したり、納得したりするための、「自分なりの解釈」があると思うのです。

たぶん、わたしたちが思っているより、世界はすごく、ぼんやりしていて、もやもやしていて、ふたしかなのです。

だけど、ちゃんとわか(ら/ったつもりになれ)ないとやっていけないし、とにかく自分が不安なので、とりあえず「こういうことかな?」という解釈をしてみます。

そうすると、なんだか、世界がはっきり見えるような気がして、安心します。「なあんだこういうことか!」と思えてしまいます。

視力がいいなら、いいですが、目がいいなら、いいのですが、だいたいそれって、わたし本来の力では見えないであろうものを、がんばって見ている状態なのではないでしょうか。

つまり、「めがね」をかけて、世界を見ている状態。


それだけならいいのですが、その「解釈」って、その「めがね」って、わたしがわたしが見るもの見たいもの見るべきだと思ってるものがよく見える「めがね」であって、あなたから見える世界がよく見える「めがね」であるとは限らない。

というか、おそらく、ちがいます。

わたしとあなたでは、おなじものを「見て」いても、ちがうものが「見えて」いるんだと思います。

それを、忘れてしまうのです。忘れてしまうと、ときどき、いやな思いをしたり、いやな思いをさせてしまったりするのです。


世界がはっきり見えること、自分なりの解釈ができることは悪いことではないと思います。

でも、わたしとあなたの「めがね」がちがうことを忘れずにいることは、大事だな、と思います。


目がいいひとに「目が悪いってどんな感じなの?わたしは目がいいからわからない」と言われてしまったとき、わたしはちょっぴりさみしかった。

そういうさみしさみたいなものを、なるべく、あなたが感じることのないように。


今日も意味ありそうでなさそうなことを書いてしまいました。

ですが、コンタクトに戻って、当たり前に世界がはっきり見える生活に戻る前に、書いておきたかったです。



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