つまらない|中島梓織



こんばんは、おぺです。

今日はこのブログを書き切ってから寝ます。書き切れるかな。書き切れたら起きようという気になるまでどろどろ寝たいと思います。


改めまして、2月10日、第28回下北沢演劇祭参加作品 下北ウェーブ2018選出 いいへんじ『つまり』終演いたしました。

そして今日、徳永京子さんとの公開講評も終え、下北ウェーブ2018の全日程が終了いたしました。

ありがとうございました!

ご来場いただきました皆さま、関係者の皆さま、東京夜光さん、スペースノットブランクさん、ほんとうにほんとうにありがとうございました!


実際に上演してみて感じた作品のもろもろ、終演してみて感じた作品のもろもろについては、演出ノートに書いていきたいと思いますので、ブログには、こう、なんていうか、ソフトな面。ソフト面について、書きます。


とはいってみたものの、いろいろありすぎて、何から書いたらいいかわかりません。。


今回のタイトルは『つまり』。要するにこういうこと!結局はこういうこと!というときの「つまり」です。

作品自体、こんちゃんがやまださんに対するもろもろの思いを「好き」という言葉にするかしないかというものだったのですが、そのこんちゃんの姿勢は、わたし(たち)自身に重なるものがあります。


この作品が上演されるまでに、ほんとうにほんとうにいろいろなことがありました。

下北ウェーブに応募したのは昨年の6月、8月22日にわたしは二十歳になり、あるひとを「好き」だと思いました。

8月31日、下北ウェーブ選出の連絡をいただき、少しずつ構想を練り始めたというころ、わたしは、わたしの「好き」という言葉に、もやもやを感じ始めました。それが秋くらい。

11月から台本を書き始めて、12月に完本。「ヤバイやつ」だとだれかさんに言われてしまいましたが、いや、わたしだってこれは「ヤバイ」と思いました。

「とんでもなく恥ずかしいものを書いてしまった」と。

書いてしまったものはしょうがなく、どうにか下北沢(しかも下北沢)で上演できるかたちにするしかない。めちゃくちゃ個人的な主観的な言葉たちを、めちゃくちゃ普遍的な客観的なものに仕上げなければならない。

へらへらしてるふりしてましたが、ほんとうはめちゃくちゃ、それはもうめちゃくちゃ、不安でした。ずっと、震えてました。

出ちゃってましたかね?

出ちゃってたか出ちゃってなかったかは、みなさんにしかわからないのですが、どちらにせよ出そうとしていたわけじゃないんです。ていうか出せないです。

わたしがやりたくてやってること「え〜これ大丈夫かな〜大丈夫だよね〜不安だな〜不安だな〜」なんて、言えないですよ。まあ、出ちゃってたのかもしれないのですが。


いいへんじ三人の関係性とか、座組みのみんなの関係性とか、観客の皆さんとの距離感とか、スタッフさんとの距離感とか。言えるとか言えないとか、言いたいとか言いたくないとか、思わず言っちゃったとか。

悩むのはあきた!なんて大きな声で言っておきながら、結局、おんなじところをぐるぐるして、悩んで悩んで、「自分で自分傷つけて、考えてる気になってるだけだから!」という香緒ちゃんの台詞がぶっ刺さります。いや、そこまで言わなくてよくない?!いや、書いたの自分だけれども!

って、それがもうそれで、自分で書いた台詞に傷つけられたり、自分でつけた演出に傷つけられたり、もちろん(もちろんと言ってしまうとそうしないように気をつけてないような感じですが、そういうわけではなくて、十分気をつけていたつもりなのに)だれかを傷つけたりしました。

忘れてしまったから、書き切れないから、いまここに書くようなことではないから、ここに書かない書けないこともたくさんありました。


でも、これだけのことがあったとしても、皆さまが目にするのは80分の『つまり』だけ。舞台上にあるものだけがすべてで、作品自体が、結局はこういうこと!という感覚がありました。

ね。

でもでも、それでも、わたし(たち)は『つまり』が上演されるまでのもろもろ、上演されたあとのもろもろに、思いを馳せることができます。大切だと思えます。それがほんとうにうれしかった。

皆さまも、目の前にある作品だけではなくて、これまでこれからのこんちゃん、これまでこれからのわたし(たち)に思いを馳せてくれたり、そのあともずっとつづいていく自分の生活に結びつけて考えてくれたり、そのような声が聞けて、言葉にしようとしてくれて、ほんとうにほんとうにうれしかったです。

「それだけではない」ことを知るためには、まずは「それ」をかたちにしなければならない。逆を言えば、「それ」をかたちにできる、場所や機会があることが、相手がいることが、どれだけ幸せなことなのかってことなのです。

ほんとうにありがとうございました。


うまくまとまらないな。「つまらない」な。

「つまり」の反対は「つまらない」?「つまらない」の反対は「おもしろい」?それ!というかたちがあったほうが、まとまりがあったほうが、「おもしろい」のかな?なんてことを思ったりします。

まあ、そりゃあ、そうなのですが。

でも、今回の作品を通して、かたちないもの、まとまりのないもの、「つまらない」もの、の愛おしさとか、おもしろさとかに、気づくことができたというか、これでいいんだ!と思うこともできました。

忘れたくないですもんね。「つまらない」もの。わたしたちの生活なんて「つまらない」もので溢れているのですから。


な〜んてことをつらつら書いて、どんどんこの記事も「つまらな」くなっていく〜。ここまで読んでいただいてありがとうございます。



途中まで書いて寝てしまいました。書き切らないのにどろどろ寝たから、結局こんな時間になってしまいました。まだ2月11日がうっすらと続いています。

2月11日がまだわたしのなかでうっすらと続いていることは、『つまり』がまだまだわたしのなかで続いていることと同じです。

『つまり』が終わっても、わたしは、家を出るときはあのリュックを背負うし、雨が降ったらあの傘を差すし、小屋入りが終わって当たり前のように風邪を引くし、わたしはわたしのおかゆをつくるし、やっぱりあなたのことが大切ですし、終わっても、そうやって続いていること、はみ出していること、日常の中にあの非日常が息づいていること、すべてが救いです。

『つまり』が終わってもあんまりさみしくないのは、この作品を通して終わりなんてほんとうはないということに気づけたからだと思います。

その場所を、その機会をくれた皆さま、その相手になってくれた皆さま、感謝してもしきれませんが、ほんとうにありがとうございました。


これからも続いていきます。





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