はじめましてさよなら|木村
こんばんは。木村のばらです。
今日は、急遽、以前出演した、なかないで、毒きのこちゃん『ゆ』番外編のようなものをしておりました。
もう、20日も前のことです。思い出しながらお客様の前で、短めにアレンジして発表しておりました。
ご一緒した先輩、大柿さんと再会、そしてまた一緒に作品をできるのがとてもとてもうれしく、楽しかったです。
今日が最後の稽古お休みの日だったのですが、とても有意義に過ごせて、幸せです。
今日で一年間続いた銭湯ぐらしも終わり、もうすぐ小杉湯湯パートは解体されてしまいます。
その最後の日に、すべての部屋を見てまわることができました。
何でしょう、この気持ちは…。
アーティスト、クリエイターの方々が、お部屋を開放していました。
お酒を飲みながら、映画のポスターに囲まれながら、投影される映画をBGMにおしゃべりする部屋、しずくや水面に照らされるライトを用いて、アート作品を作る部屋、テントをはって生活する部屋、壁一面の落書きとともにフリーマーケットを開催する部屋、音楽する部屋、劇する部屋…そのどれもが、その発表のテーマに限らず様々な分野で活躍されている方々が作った空間で、壊されることがわかっているからなのか、いままでに出会ったことのない空間だったからか、そこを去る足取りが重くなってしまいました。
もう、そうならないことをわかっているからこその、選択というもの、与えられるものがあるのでしょうか。
早足で見てしまったがために、すべてをよく噛み締めて見学したとは言えないと思いますが、その程度が私にはちょうどよかったのかもしれません。
なくなるものに対する名残惜しさ、なくなるのはもったいないから目に焼き付けておこう、もうすこし取っておこう、とする価値観というのか、いや、性格、育ちなのか、
足早にそこを去ったほうがいいと、無意識に思っていたのかもしれません。
大切にしようと思っているものは、どうして大切にしようと思うのか、それは自分のためであり、それが捨てられないから、美しくなっていて、忘れられないから、大切にすることで、自分の中から消化したと言いたいから、消化したことにしたいから、様々ですね。
大切じゃなくたって、傷だらけでも、ボロボロでもいいから、ひとつだけ、きょう、ひとつだけ、ふだんは言えない、言わないなにかを、誰かに言ったって誰にも怒られないと、そんなこと思いますよ。
そういう日が増えたらいいと、思います。
この人にはこの部分が言えるけどこの部分は隠したままでいい、人はそんな生き方でじゅうぶんだと思います。
お隣の部屋がフリーマーケットをしていて、うかれてドラえもんのような色のコートと夏のワンピースを購入しました。あったかいのかわからないですが、忘れたくないために、形に残してしまいました…。夏も冬も、思い出せます。
そういう自分も、今日は許しますよ。
あしたから、がんばってまいります!
簡潔だね!
それでは、おやすみなさい。
木村のばら
湯パート103です。においが大好きでした。
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