お手紙|中島梓織
こんばんは、おぺです。
最近、渡そうとしたけど渡さなかった手紙を読み返すことがありました。
自分の部屋のどこにしまってあるのか、忘れたふりしてぜんぜん忘れていなくって、怖いもの見たさで見てみたら、なんだか、すごく大切なことがつまっているような気がしました。我ながら。これを、どうにか『つまり』に使えないかと、何度も何度も読み返しました。
昨日の夜、やっとそのシーンがひとつのかたちに落ち着いて、ここからはみんなといっしょにぜんぜんちがうものに仕上げていきます。よろしくお願いします。
お手紙って、いいですよね。
二十年そこらしか生きていないですが、何か大切なことを伝えようとするときに、手紙という媒体を選ぶことが多かった気がします。
面と向かうとね、余計なことまでしゃべっちゃうんですよね。余計なことまでしゃべっちゃって、肝心なところを伝えられなくて、結局あとになってメールやLINEで「ごめん、まだ言ってなかったことがあって」って伝えたり、伝えられなかったり。
そういう自分を知っているからこそ、手紙のときは、何度も何度も書き直して、本当に伝えたいことを伝えられたかを、何度も何度も確かめます。
その作業が好きなのかもしれません。
このひとに対して、こんなことを思っているんだ、こんなことを思えるひとに、わたしは出会うことができたんだ、とうれしくなります。とてもはずかしくもなるのですが、いや、でもやっぱりうれしいです。
それなのに、渡せなかった手紙、渡さなかった手紙があって、どうしてだったんだろう。
いまになって、シンプルに、手紙ではないな、と思ったからじゃないかなと思います。
お手紙を読んでいるときのあなたの顔をわたしは知らない、ということが、いいときと悪いときがあって、渡さなかったときはきっと、悪いときだったのでしょう。
お手紙を読んでいるときのあなたの顔をわたしは知らない、からこそ、素直?というか、余計なことを削ぎ落としたまっすぐな言葉を書くことができるのはとてもいいことなのですが、
それを受け取ってもらえているのか、受け取ってもらえたとして、あなたにはなにがあってなにがないのか、はたまた、封を切られていなかったとしても、わたしはそれを知ることができません。
それでもいい!ならいいのですが、そのときのわたしは、そうではなかったのでしょう。
でも、お手紙にしなければ分からなかった気持ちもあったし、そのときは、お手紙を渡さずに、面と向かって伝えました。そのときに、お手紙にしなければ分からなかった気持ちもいっしょに伝えました。
あなたが受け取ってくれたこともわかったし、それはそれでよかったんだと思います。相変わらず、余計なことも、たくさんしゃべってしまいましたが。。
だから、いったんお手紙を書いて、大切したい気持ちがあることをたしかめてから、あなたの「応え」を目の当たりにできるかたちで伝え直す、というのがけっこういいんじゃないでしょうか。
そのまま、お手紙で渡すにしても、どうにかしてそのお手紙に書いたことを残しておいたりすると、あとになって大切な気持ちを思い出すことができるので、これはオススメです。
思い出すことができてよかったです。
お手紙を書くような気持ちで、日々を過ごせたらいいな、と思いますね。
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