言えない/中島



こんばんは、おぺです。

ここ数日のタイムラインを眺めていて感じたことを書きます。#metoo のことです。


#metoo というハッシュタグを使って、自らが過去に受けたセクハラや性的暴力をカミングアウトする動きが広まっています。

勇気ある行動が、次々と勇気ある行動を生んで、わたしたちがさまざまなハラスメントについて考え直すきっかけになっているといえます。


その一方で、それでもやっぱり「言えない」人がいるということが、わたしは気になってしまいます。
 
勇気を出して声を上げた人に対する、セカンドレイプ的なコメント。「あなたにも非があったのでは?」「自分の容姿を自慢したいのか?」これでは、いくら声を上げていいという動きがあったとしても、沈黙を選んでしまう人もたくさんいるでしょう。

それに、#metoo は「言おう」とする人の背中を押すムーブメントであって、「言わない」人や「言えない」人に、どんどん言おう!どんどん言って!と促すものではありません。それでも、なんとなくそんな雰囲気になってしまうこと、「言えない」人自身が、そんな自分に後ろめたさを感じてしまうこと、めちゃくちゃ気になってしまいます。

わたしだって、思い当たることがいくつかあるし、言いたいことはたくさんあるけれど、直接的なことは「言えない」です。

もちろん、そういう人を気にかけてくれるコメントもあって、わたしはそれに勇気づけられて、これを書いています。

書けることだけ、書こうと思います。


「言えない」ということについてはずっと思うことがあって、特に、助けて、と言えないということは、深刻な問題だと思っています。

で、わたしも、わりと「言えない」人間です。

こうやって、文章書いたり、演劇作ったりしてるんだから、「言えない」ことで悩むことないでしょう、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、いやいや、けっこう「言えない」です。

どうして言えないの?、と聞かれても、言えないから、と答えるしかないです。だれに、なにを、いつ、どう、「言えない」のかによってもいろいろですが、言えないものは言えないのです。

 
大事なのは、「言えない」からといって、「言わない」からといって、それは何もないことにはならないということ。

NOと「言わない」ことをじゃあYESだと捉える人がいるから、ハラスメントをする人はいなくならないし、助けてと「言わない」ことをじゃあ平気だと捉える人がいるから、ハラスメントはなくならない。「言わない」のではなくて、「言えない」のかもしれないのに。

相手が「言わない」ことを、自分に都合のいいようにだけ受け取る人がいる限り、きっとずっとあんまりよくならないままだと思います。


何もないことにはならない。夏にもこんなこと書いた気がするな、と思ったら、やっぱり書いてたので、載せておきます。

「傷」

本当に弱いのは、弱くないふりをしている人だ。傷ついたとき、傷ついたって言える人は強い。強いし、わたしは羨ましい。

ぶつぶつ言ってないで、大きな声で言いなよ。大きな声で言えないなら、何も言わずにとっととやりなよ。あの子は相変わらず強い子で、わたしはごめんなさいとしか言えない。でも、言えないものは言えない。言えないけど消したくはない。言えなければそれはないことなのかな。そんなことぶつぶつ言ってるから、わたしは弱くないふりしかできない。はいはい、とっととやりますよ、わたしなりに。

誰かを傷つけてることに気づけなくなるくらいなら、傷ついたなんて一生言えなくていい。羨ましい人のことを、どこかで嫌いだ。嫌いな人のことを、どこかで羨ましいのと同じように。

と、そんなことぶつぶつ言ってます。

「あの子」はいいよな!みたいな、嫉妬みたいな文章に思われるかもしれませんが(もちろんそれもあるにはあるのですが)「あの子」を全否定しているというわけではなくて、「あの子」の強さに対する尊敬もあるし、だからこそうらやましいし、それに、「あの子」にだって言えないことはあるということもわかっています。

それでも、こんな言い方になってしまったのは、「あの子」が言えるからって、わたしに言えるとは限らない!という気持ちがあるからです。そんな気持ちがあったとしても、わたしもうっかり「あの子」になりうるから、そんなことはしないぞ、って心に決めたのです。


何は言葉にできて、何は言葉にできないのか。どの言葉を選んで、どの言葉を捨てるのか。どれもひとそれぞれだということを、わたしたちはすぐに忘れてしまいます。

言葉はいつでもわたしとあなたの間にあるもので、わたしが思っている通りに、あなたが受け取っているかどうかは分からないということを、すぐに忘れてしまいます。

自分が強い立場にいる場合は余計に。

忘れたくないと思ったのでしょうね。このときのわたしも。おかげでしっかり思い出しました。きっとこの文章を読んで思い出す、いつかのわたしもいるでしょう。


こんな、めんどくさいから忘れちゃうようなことを、めんどくさいけど思い出しつづけていけば、何か変わるんじゃないかなと思っています。

ちっぽけなので、思い出しつづけていこう!というムーブメントを起こすことはできないですが、わたしだけでも、思い出しつづけていこうと思います。こつこつと。



と、ここまで書いてきましたが、これがすべてではありません。

この文章のことだけではなくて、#metoo で声を上げた人たちも、声を上げなかった人たちも、です。(言葉にしないことも言葉だとして)言葉というものを介してしまっている限り、決して、すべてではないです。

書きたいことは書きますし、書きたくないことは書きません。いま書かないだけで、いつか書くかもしれません。ずっと書かないかもしれませんし、ずっと書けないかもしれません。

何を書かなかったのか分かってほしいわけではなくて、「書かなかったこと」「書けなかったこと」があるということを分かってほしいのです。


つまり、何が言いたいかというと、わたしの言葉とあなたの言葉に誠実な人間でありたいということと、そういう姿勢で『つまり』をつくりたいということです。


長くなってしまいました。


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