何が悲しかったんだろう/中島


こんにちは、おぺです。

昨日、家の鍵を失くしました。
一応、ことなきを得ましたが、ひとしきりへこみました。

以前からこのブログをお読みになっている方、また、普段のわたしがどんな感じかご存知の方は、なんとなくお察しでしょうが、こういうの、まじで何回もやらかしてます。

定期を落としたり、鍵を失くしたり、傘を忘れたり、大事なものを落としたり失くしたり忘れたり。もう、そんなことばっかりです。東京来てから何回やったかわかりません。

気をつけます。

こういう「だれのせいにもできない」ことが起こると(わたしの場合しょっちゅうなんですが、)なんでもない東京の風景が、全部悲しく思えてきます。

道端で声を荒げている人とか、人混みで舌打ちをしている人とか、たったそれだけのことなのに、なんでもないときは気にせずに通り過ぎることができるのに、「だれのせいにもできない、でもどうにかしないといけない」ことを抱えて歩くわたしには、なんだか全部悲しく思えてきてしまうのです。

そうそう、なんでもないときに、なんであんなに悲しかったんだろう?って、自分でも思うんですよね。それがいちばん不思議。わたしではないだれかに「何言ってんの?」って言われるのはわかるんですけど、自分自身でさえ、全部悲しく思えてくるとか言ってる自分に、「何言ってんの?」って言えるときもあるんです。

そのときの自分にしか見えなかった景色、そのときの自分にしか生まれなかった言葉、そういうほんとうに特殊な?限定的な?個人的な?フレームみたいなものって共有することはできるのでしょうか。

なんでもないことが悲しく思えるとき、わたしはその言葉をだれかに聞いてもらいたい、と思います。たいていはだれにも聞いてもらわずに帰って寝るんですけど、でもきっと、そのフレームをだれかに渡したところで、「何言ってんの?」と少なからず思われるということはわかっているんです。わかっているから、しまっておくのかもしれないですし。

だけど今回は、そういうフレームみたいなものをあえて使って、作品をつくりたいと思っています。特殊な、限定的な、個人的な。(まだうまい言葉は見つかっていません)

全部を共有することはできなくても、たったひとりに、たったそのときだけに見えた景色生まれた言葉、そこから何かを考えることはできるような気がしています。

わたしも、なぜ昨日の夜の小田急で、あんなに不安な気持ちだったのか、あんなに悲しい気持ちだったのか、もうわかりません。

だから「何言ってんの?」を出発点にして、「なんでこんなこと言ってんだろうね?」って考えられたら、ちょっとだけ視野を広げられるのかなあ、みたいな。

だんだんとまとまりがなくなってきたぞ。今日はここら辺で終わりにしておきます。

悲しい悲しい言ってますけども、ことなきを得たわたしはもうすっかり元気です。今日は二回目の公開稽古!はりきっていきたいと思います。よろしくお願いします。


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